FC2ブログ

背番号 25

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

今江 敏晃

20051025-04062804-jijp-spo-view-001.jpg

今江 敏晃、ニックネームは「ゴリ」。中3春に全国優勝。ボーイズリーグの世界選抜で世界大会で優勝した。高校時代は強豪PL学園で1年生から4番に座る。2年夏に4番遊撃手で甲子園に出場、3回戦敗退。当時の同級生に現阪神の桜井広大、東北楽天の朝井秀樹。04年は後半戦一軍に上がるも故障もあり41試合の出場にとどまった。05年度は背番号が25から8に変更。背番号8とはかつて同じサードを守り「ミスターロッテ」と呼ばれた有藤通世の現役時代の背番号で、キャンプでは有藤本人から叱咤激励の言葉を受けた。将来クリーンアップを担う選手として首脳陣の期待も大きい。05年、打順は上下するもサードのレギュラーに定着。球団史上歴代5位となる22試合連続安打を記録し、一時は打率ランキングトップとなるなど活躍。そして日本シリーズでは第1戦・第2戦で8打席連続安打の新記録を達成するなどチームの日本一に貢献、MVPを獲得した。日本シリーズの第1戦でホームランを打った際、そのボールはレフトの阪神サイドへ。その試合後、そのホームランボールを取ったというファンから今江にそのホームランボールを返還してくれた。この行為に本人は人目をはばからず号泣。「明日以降も頑張ります!」と宣言し、その後もシリーズ男として八面六臂の大活躍を見せた。04年、10歳年上の夫人と結婚し、翌年10月のプレーオフ開催中に第1子が誕生した。






スポンサーサイト
  1. 2005/10/31(月) 23:18:25|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

石井 一久

300-4.jpg

石井 一久、ニューヨーク・メッツの投手。コントロールは粗いが、非常に切れのいい速球と左打者の後ろから入ってくるような大きく割れるカーブを投げることで知られる。東京学館浦安高時代は、甲子園出場こそなかったものの、3年夏の県大会4試合で合計52奪三振を記録した。92年、ドラフト1位でヤクルトに入団。ルーキー年に1軍帯同しており、日本シリーズ第2戦に先発している。入団時から背番号は16で、球団の大きな期待がわかる。初勝利は93年の阪神戦。雨天コールドで拾った勝利だった。この年、3勝をマークすると、94年には7勝と、着実に勝ち星を増やす。95年、13勝4敗で最高勝率を記録し、リーグ制覇と日本一に貢献。97年も9月2日にノーヒットノーランを達成するなどの活躍を見せ、チームを日本一へと導いた。98年に241奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得すると、2000年は最多奪三振と最優秀防御率の2冠を達成。01年には12勝を挙げ、4年ぶりとなる日本一の原動力となった。リーグ優勝の時には真っ先にベンチを飛び出し、胴上げ投手である高津臣吾に捕手の古田敦也よりも早く抱きつく(普通、優勝の瞬間は投手と捕手が抱き合う)。さらに、同年の日本シリーズでは最後の打球がファールグラウンドに上がったキャッチャーフライであったのをいいことに、ベンチからカニ歩きで出てきて、捕球の瞬間にダッシュ。やはり高津と抱き合った。同じく01年のリーグ優勝時の若松勉監督の胴上げで、同僚の石井弘寿と協力し、小柄である若松監督の足を高々と上に突き上げ、回転させるという危ないいたずらをした。02年、ポスティング(入札)制度を使ってドジャースに入団。入団会見では「僕の妻はカリフォルニア人」と話し、会場の爆笑を誘う。4月6日のロッキーズ戦で初勝利を挙げると、その後開幕6連勝をマーク。4月のナ・リーグ月間最優秀新人賞に輝く。1年目から先発の柱として14勝を記録するが、9月8日のアストロズ戦で打球を左前頭部に受け途中退場。頭蓋骨(ずがいこつ)の亀裂骨折でシーズン中の復帰は果たせず、惜しくも新人賞を逃した。03年はシーズン中盤まで安定した成績を残すも、8月に左ひざ痛のため約1カ月の故障者リスト(DL)入り。 9勝7敗の成績で、新人からの2年連続2ケタ勝利は逃した。04年、シーズン初登板で1勝目を挙げると、開幕から最多勝争いを繰り広げる。7月には早くも2ケタ勝利をクリアするものの、防御率の悪さからか、首脳陣の信頼を得られず、中継ぎにも回った。結局、チーム最多の13勝をマークしたが、プレーオフでの登板はなし。05年、ジェイソン・フィリップスとのトレードでニューヨーク・メッツに移籍。 しかし、移籍1年目は思うような成績を残せなかった。日本球界復帰の噂もあるが、来期にかける思いは強い。






  1. 2005/10/31(月) 23:06:04|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

小林 雅英

20051026-04064858-jijp-spo-view-001.jpg

小林 雅英、人呼んで「幕張の防波堤」。薮田安彦、藤田宗一から小林に繋ぐリレーはロッテの“勝利の方程式”である。その高い安定感を誇るリレーを阪神の「JFK」とかけて「YFK」と呼ぶ。入団した99年シーズンは専ら先発として起用され、5勝5敗の成績を残したが、翌00年、当時の山本功児監督によってリリーフに配置転換されると、150㎞超の速球と高速シュートを武器に11勝6敗14セーブの好記録を挙げる。 以後03年まで3年連続の30セーブを達成している。04年、アテネオリンピック野球日本代表に選出。リリーフ投手として素晴らしい成績を出してはいるが、毎回のようにヒットなどでランナーを出す。そしてピンチになるも最後は抑えるという所謂「劇場」をやってしまうことが多い。そのためついたあだ名は「劇場王」。05年にようやく初のタイトルである最優秀救援投手賞を獲得したが、投球回数を上回る被安打数(45回1/3イニングに対して被安打49、与四死球10)を記録した。それでも防御率は2,58で要所は締めていた。05年5月18日の対広島東洋カープ戦において、プロ野球史上4人目となる通算150セーブを達成。登板数312試合目での150セーブ達成は史上最速。 05年10月15日、福岡ドームで行われたプレーオフの対ソフトバンク第3戦にて31年ぶりのリーグ優勝を目の前にして4-0から同点にされる大失態を演じた。第5戦でも一打同点、プレーオフ敗退の場面を「演出」するも、後続を抑えて胴上げ投手となり、劇場王の面目を保った。日本シリーズでは、阪神タイガース相手に第4戦のみに登板、四球でランナーを出したものの、見事に胴上げ投手となった。






  1. 2005/10/31(月) 22:42:52|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

サミー・ソーサ

050121_mlb_sosa.jpg

サミー・ソーサ、メジャーで唯一、シーズン60本塁打以上を3度も記録している強打者。ドミニカ共和国に生まれたソーサは、16歳でレンジャーズと契約。89年にメジャーデビューを果たすも、シーズン途中でホワイトソックスへトレードされる。92年、同じシカゴを本拠地とするカブスへ移籍。この年はケガに悩まされるも、93年にブレーク。33本塁打に加え、36盗塁を記録した。 96年に自己最多の40本塁打をマークしたソーサは98年、マーク・マグワイアと史上まれに見る本塁打王争いを繰り広げる。結局、2人もロジャー・マリスが打ち立てたシーズン61本塁打の最多記録を上回り、マグワイアが70本塁打、ソーサが66本塁打で終了。ソーサは本塁打王のタイトルこそ獲得できなかったが、158打点で打点王に輝いた。02年に49本塁打で2度目の本塁打王となったソーサだが、翌03年は思わぬ事件に巻き込まれる。試合中に折れたバットからコルクが発見され、退場処分を宣告され、後に7試合の出場停止処分が下されてしまったのだ。この事件の影響もあってか、この年は40本塁打に終わったが、チームはプレーオフに進出。しかし、リーグ優勝決定戦でマーリンズに惜しくも敗れた。04年は、打率が2割5分3厘と98年以降では最低。本塁打も35本で、40本塁打以上は6年連続で途切れた。05年、オリオールズに移籍し、念願のワールドシリーズ進出を目指したが、ヤンキース、レッドソックスの2強を崩すことはできなかった。




  1. 2005/10/31(月) 22:29:07|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

佐々木 主浩

ks-1.jpg

佐々木 主浩、ニックネームは大魔神。背番号は日米球界を通じて22番。背番号22番は、横浜ベイスターズの永久欠番となる事が噂されている。89年、ドラフト1位(野茂英雄の外れ1位)で横浜大洋ホエールズ(現:横浜ベイスターズ)に入団。 入団2年目より救援に専念すると、重い直球と落差のあるフォークボールで高い奪三振率を記録し、圧倒的な存在感を持つ抑え投手となった。 特に中継ぎの盛田幸妃投手とのコンビは鉄壁を誇り、「横浜相手で6回までにリードしていない限り、逆転は不可能」とまで言われるほどであった。 98年には島田直也、横山道哉など、好調な中継ぎ陣とともに横浜の優勝に貢献、MVPに選出された。99年オフにFA宣言し、メジャーリーグのシアトル・マリナーズに移籍。ここでも抑え投手として活躍した。04年横浜ベイスターズに復帰。多少威力は衰えたとはいえ、数種類に変化するフォークボールは他球団の脅威となっていた。 しかし、8月4日の中日戦、8月7日のヤクルト戦で連続して救援に失敗すると、8月8日のヤクルト戦でも土橋勝征、岩村明憲、古田敦也に3連続本塁打を浴びて救援に失敗。3試合連続の救援失敗となった後、二軍落ちし、そのままシーズンを終えた。05年のシーズン開始当初は抑え役を務めていたが、年齢と度重なる怪我から来る球威の衰えは隠せず、登板3試合連続サヨナラ負けを喫するなど打ち込まれ、8試合0勝3敗4セーブ防御率9,53の成績で二軍落ち。その後復帰を目指して調整を続けていたが、調子は上がらず、またその間にクルーンが抑え役に台頭したこともあり、チームの戦力構想外となる。8月7日、現役引退を表明。8月9日の巨人戦では、序盤に清原和博に対するワンポイントリリーフという強引な形で宮城での引退登板を行った。本拠地での引退試合は、10月8日(対ヤクルト戦)に行われたが、当初予定されていた登板は「チームがAクラスを争っている時に登板して迷惑をかけるのは良くない」という理由で行わず、セレモニーでの挨拶のみが行われた。「大魔神」と呼ばれるごついイメージとは裏腹に、温厚かつ人当たりの良い性格で、チームメートや後輩からも慕われており、交友関係は野球界のみならず芸能関係にも幅広い。








  1. 2005/10/31(月) 22:16:22|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

井口 資仁

20050827-00000008-spnavi-spo-view-000.jpg

井口 資仁、国学院久我山高時代、2年夏に甲子園出場。1回戦の池田高戦で4-5と敗れるも、1安打を放った。卒業時は、高校通算27本塁打を放った長打力と走攻守3拍子そろった大型野手としてプロからも注目される。青山学院大に進学すると、1年春にリーグ戦デビュー、いきなり打率333の成績を残す。2年秋にはシーズン最多本塁打の8本塁打。3年時には春7本、秋5本を放ち、年間本塁打12本の新記録を樹立した。4年春に東都新記録となる24本塁打。東都の本塁打記録を次々と塗り替え、『20世紀最後の大物野手』として騒がれた。またアトランタ五輪の野球日本代表にも選出され、谷(オリックス)、今岡(阪神)、福留(中日)らとともに銀メダルに貢献した。大学通算は101試合に出場して、103安打、24本塁打、61打点、2割8分1厘。96年のドラフト会議では、ダイエーを逆指名して、1位入団。右足首ねん挫のため、新人での開幕スタメンはならなかったものの、5月3日の1軍デビュー戦で満塁本塁打を放つという、ド派手なデビューを飾った。しかしその後は、プロの壁にはね返され、76試合で打率203に終わる。2年目はショートのレギュラーに定着し、全試合出場。21本塁打を放ったが、打率221と安定感に欠いた。2001年にセカンドにコンバートされると、実力が開花。44盗塁で盗塁王に輝く。さらにリーグ史上3人目となる30本塁打、40盗塁を記録し、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得した。03年には、初の3割となる打率340をマークすると、27本塁打、109打点でリーグ優勝、日本一に貢献。また42盗塁で2度目の盗塁王に輝いた。その他に、5試合連続猛打賞の日本タイ記録を達成。04年は、打率333を打って、2年連続3割を記録した。オフに契約書の特約条項に基づき自由契約となり、MLB挑戦を表明。メジャー球団への移籍先を探したが難航。しかし、ホワイトソックスと2年契約を結び、念願のメジャーリーガーとなった。入団記者会見では「やっとスタートラインに立てた」と笑顔で語った。移籍後は、シーズン当初より内野手として活躍。移籍1年目でいきなりワールドシリーズ出場、世界チャンピオンに。日本人では伊良部秀輝に次いで2人目のチャンピオンリング獲得。しかし伊良部はワールドシリーズに出場しておらず、実際に参加してリングを獲得したのは井口が初めてである。

  1. 2005/10/31(月) 22:01:50|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:0

松坂 大輔

ph1.jpg

松坂 大輔、MAX156km/hの豪速球・切れ味鋭いスライダーなど超高校級の投手として甲子園で活躍し、平成の怪物と言われ注目される。横浜高3年春に初の甲子園出場。5試合すべてを一人で投げ切り、3完封を記録するなど横浜高をセンバツ優勝に導いた。夏も東神奈川大会を制し、春夏連続甲子園出場を果たす。2回戦では、大会屈指の左腕と言われた杉内(鹿児島実→現ソフトバンク)から本塁打を放った。準々決勝では、今も語り草となるPL学園との延長17回の熱戦に勝利。一人で投げ切った。準決勝の明徳義塾戦は4番レフトで出場。一時は6点差をつけられたが、2点差まで詰め寄った9回から登板。無失点に抑え、9回のサヨナラ勝ちを呼び込んだ。また決勝では、京都成章相手に無安打無得点試合を達成。チームは史上3校目の春夏連覇を達成した。その後のかながわ夢国体でも優勝。史上初の春夏甲子園、国体の3冠となった。98年度ドラフト会議では、指名順位1位で西武、横浜ベイスターズ、日本ハムファイターズの3球団が競合の末西武が交渉権を獲得。当初横浜志望と見られていたが、当時の東尾修監督から自身の200勝達成時のウイニングボールをプレゼントされるなど熱烈な勧誘を受け、西武へ入団した。99年の4月7日、155キロを計時した日本ハム戦で初登板初先発初勝利を挙げる。またイチローとの初対決では、3打席連続三振に切って取った。以後、16勝を挙げ、最多勝、新人王、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得した。2年目は、10代では15年ぶり4人目となる開幕投手を務め、7回3失点で勝利を飾った。また7月の近鉄戦、中村紀洋の打席で自己最速となる156キロを計時。この年、14勝を挙げ、2年連続最多勝と初の最多奪三振を獲得した。3年目も15勝をマークし、新人の年から3年連続最多勝に輝く快挙を成し遂げた。4年目はケガの影響もあり6勝にとどまるが、チームはリーグ優勝。初めての日本シリーズで開幕投手を務めたが、清原に本塁打を打たれるなど結果を残せなかった。03年は、自己最多タイとなる16勝を記録。最多勝には届かなかったが、初の最優秀防御率、2年ぶり3度目の最多奪三振を獲得した。アテネ五輪の野球日本代表に選出された04年。五輪では2試合に先発し、キューバ相手に勝利を収めるなど銅メダル獲得に貢献した。シーズンでも先発ローテションの中心として、10完投、5完封、防御率2.90と2年連続最優秀防御率のタイトル。日本シリーズでも好投を見せて、西武を12年ぶり9回目の日本一に導いた。05年も、安定した投球を見せ、最多奪三振のタイトルを獲得、防御率は2,30を記録した。現在のプロ野球では数少ない完投型のピッチャーである。高校時代はクリーンアップを打ち、プロに入ってからも一度だけデニー友利への代打で出場(グリーンスタジアム神戸での対オリックス・ブルーウェーブ戦)、ヒット、打点を記録している。メジャーリーグへの志向が強く、05年シーズン終了後にポスティングシステムでの移籍を希望と噂されている。










  1. 2005/10/31(月) 21:43:51|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:0

桑田 真澄

20051029-00000011-maip-spo-view-000.jpg

桑田 真澄、甲子園に連続5期出場し、PL学園の黄金時代を築いた早熟の天才ピッチャー。同期の清原和博とともに「KKコンビ」として大活躍。83年の優勝時は、優勝投手として学制改革以降最年少の記録を立てた。甲子園通算勝利数も歴代2位で学制改革以後は1位である。入団2年目の87年に早くも15勝を挙げ、最優勝防御率、沢村賞などのタイトルを獲得し、斎藤雅樹、槙原寛己と共に「3本柱」と称された。その後も、順調にキャリアを積み重ね、日本一になった94年には14勝、防御率2,52でMVPも獲得。しかし、翌95年、アクシデントが襲う。ピッチャーフライに飛びついて、右肘靱帯断裂の重傷を負い、手術のため渡米。95年残りシーズンと96年を棒に振った。 2年近くのリハビリ生活の後で迎えた97年、投手陣が崩れる中で一人踏ん張り、10勝を挙げる活躍。常連のゴールデングラブ賞も6度目の獲得と、完全復活した。98年は最多勝こそ逃したものの、16勝、最優秀勝率のタイトルを獲得し、名実ともにエースとして蘇った。 以後精彩を欠いていたが02年、独自の投球観を実践し復活。4年ぶりの10勝(12勝6敗)、15年ぶりの最優秀防御率(2,22)のタイトル獲得でチーム日本一に貢献した。高校時代は清原とともにクリーンナップを打ち、プロに入ってからも打撃には定評がある。 さらに守備もうまく、幾度となくゴールデングラブ賞を獲得し、バントの名手川相昌弘をもってして 「バントが一番決めにくい投手」と言わしめた。現在も「3拍子そろった投手」として、憧れの選手に彼を上げる野球選手は後を絶たない。 通算200勝も視野に入れている。





  1. 2005/10/31(月) 21:21:06|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

清原 和博

img1410.jpg

清原 和博、05年のシーズン終了時点で通算514本塁打を打ち、落合博満(現・中日ドラゴンズ監督)を抜き、単独5位だが、1シーズン記録としては最多本塁打は37本、3割を越えたことも2回しかない。通算三振と死球は現在日本記録である。甲子園を揺るがせた怪物。全国から集まる精鋭揃いのPL野球部の中、1年から4番に座り、同期のエース桑田真澄(読売)とともに1年夏から甲子園に5季連続出場。1年夏いきなり優勝、2年春・夏は共に準優勝、3年春ベスト4、3年夏には2度目の優勝と、桑田との「KKコンビ」として大活躍、2人を擁するPLは当時ほぼ無敵状態の強勢を誇った。清原の超高校級の打棒は凄まじく、1大会通算最多本塁打(5本)、最多連続試合本塁打(3試合)、1試合最多本塁打(3本)など未だに破られていない記録を次々に樹立、甲子園通算本塁打は13本を数え、これももちろん最高記録。未だに記録・記憶両面で高校野球史上最強の打者とも言える存在であり、その活躍を植草貞夫アナウンサー(朝日放送・当時)が「甲子園球場は清原のためにあるのか」との名台詞で実況したことでも知られる。高校通算本塁打は64本。PL学園を経て、王貞治を超えるのでは、とも言われたその実力の行き先は85年ドラフト会議の目玉であり、清原本人は読売ジャイアンツ入りを熱望していたが、投手の世代交代を懸念し読売は桑田真澄を指名。6球団競合の結果西武ライオンズが指名し、清原は西武に入団することになる(当時の背番号は3番)。西武に入団した1年目から、31本塁打(ルーキーのシーズン最多本塁打タイ記録)、打率.304と堂々の成績で新人王を獲得し、勝負強いバッティングが、西武全盛期を支える屋台骨となった。 以後86-88、90-94年の8度のリーグ優勝、6度の日本一(86-88、90-92)に貢献。檜舞台に強く、日本シリーズでは調子を落とす事無く一貫して4番を打ち、86年、88年は優秀選手に、93年、94年は敢闘賞に選ばれている。97年、FA権を行使して子供時代からの憧れだったジャイアンツに移籍。長嶋茂雄(当時)が彼を獲得するときに「僕の胸に飛び込んでおいで」といったのはあまりにも有名。移籍後も1年目97打点、2年目80打点とコンスタントにランナーを返していたが1年目に低打率を理由にファンに応援をボイコットされるなど自分の残せる成績と違うものを求められている事に苦悩する。00年のオフ、暗中模索の中ケビン山崎の指導の元、「肉体改造」トレーニングを積む。肉体改造に成功した01年は完全復活。西武時代も含めて自己最多の121打点を記録するなど、本来の勝負強いバッティングが蘇った。その年以外は規定打席に到達していないが「故障しなければ」というシーズンが多い。通算本塁打数は単独5位ではあるが、獲得タイトルのない「無冠の帝王」。ただし、新人王、最高出塁率2度、最多勝利打点王、ゴールデングラブ賞数回、ベストナイン数回を獲得しており、本当の意味での無冠というわけではない。また、清原はオールスターのMVP最多受賞、打率1位、本塁打2位、打点1位という記録を持っている。歌手の長渕剛を尊敬しており、実の兄のように慕っている。










  1. 2005/10/31(月) 20:59:18|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

バリー・ボンズ

bonds2.jpg

バリー・ボンズ、メジャーのシーズン本塁打記録を塗り替えた史上最強打者。現在世界最強の打者と言っていい。ゴールドグラブ賞も8度受賞しており、攻走守3拍子そろった選手だ。父親のボビー・ボンズも元メジャーリーガーで、いとこがレジー・ジャクソンという野球一家に育った。1985年、パイレーツにドラフト1位で入団。翌86年に早くもメジャー昇格を果たすと、113試合に出場し、16本塁打、48打点、36盗塁を記録した。90年代はメジャー最高の「万能型」選手として、「30-30」(30本塁打30盗塁)を5度、「トリプル3」(3割30本塁打30盗塁)を3度、「3割40本塁打40盗塁」を1度記録。また外野手としての肩の強さ、守備範囲の広さもメジャートップクラスで、走攻守すべてにおいて際立った実力を見せていた。00年、年齢が30代後半になり自慢の俊足、守備力に衰えが見え始めると、今度は長距離打者へ飽くなき進化を遂げることになる。00年、自己最高の49本塁打を記録したボンズは、翌01年に37歳にして大記録を打ち立てる。マーク・マグワイアの記録を更新するシーズン本塁打73本のメジャー新記録を樹立、04年9月には史上3人目となる通算700号本塁打を達成した。現在、ハンク・アーロンの持つ755本のメジャー通算本塁打記録の更新が期待されている。近年でこそ盗塁数の減少が目立つが、03年には通算500盗塁を達成するなど俊足は健在。守備も悪くないレベルを維持している。若いころから選球眼に優れているが、長打力の向上と共に四球が急激に増加した。これは異常なほどミスショットが少ない上、飛距離も併せ持つバリー・ボンズに対し、相手投手はストライクゾーン内部で勝負する事が困難となったからボール玉が増え、それをバリー・ボンズが見極めているからだ、と推測される。04年は120敬遠を含む232もの四球を記録し、自身が持っていたシーズン最多四球数を大幅に更新した。02、04年は首位打者。さらに01から04年まで4年連続MVPを獲得。40歳を超えたボンズだが、まだまだ衰えは見せない。

  1. 2005/10/30(日) 19:33:34|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

デービッド・オルティズ

ortis2.jpg

デービッド・オルティズ、圧倒的なパワーで本塁打を量産する左の大砲。04年、レッドソックスのワールドシリーズ制覇の立役者。「ビッグ・パピ(大きなお父さん)」の愛称でファンから親しまれている。 ドミニカ出身のオルティーズは地元の高校を卒業後、92年にマリナーズと契約を結ぶ。96年まではマリナーズ傘下のマイナーリーグで経験を積んだ。96年にミネソタ・ツインズにトレードされ、97年9月にメジャーデビュー。この年、15試合に出場し、メジャー初本塁打を放った。その後、メジャーとマイナーの間を行き来するが、2000年には130試合に出場し、メジャーに定着。本塁打の数も、01年に18本塁打、ツインズがアナハイム・エンゼルスにアメリカンリーグ・チャンピオンシップで敗れた02年には、打率272、20本塁打、75打点の成績を残し、徐々に実力の片鱗を見せ始めた。しかし左ひざと右手首の故障のため年間130試合以上出場したことがなく、左腕投手に弱い、といった理由でツインズはオルティズを放出し、ボストン・レッドソックスが獲得する。眠れる才能が一気に開花したのはここからである。03年からはボストンの5番指名打者に定着し、打率288、31本塁打、101打点の成績を残し、ホームランバッターの証とも言える30本の大台に乗せた。同年のMVP投票で5位につける。04年には主に4番を打ち、リーグ2位の139打点、打率301、41本塁打を記録し、本塁打のタイトルこそチームメートのラミレスに譲ったが、MVP級の活躍を見せる。打率も規定打席に達したシーズンとしては初の3割をマークした。また、 同年には1931年のベーブ・ルースとルー・ゲーリッグ以来の同チームで3割、40本塁打、100打点のアベックをマニー・ラミレスと形成。オールスターゲームにも選出され、2ランホームランを放ち、2四球と2得点を記録する。また、ポストシーズンではさらに勝負強さを発揮し、アナハイム・エンゼルスとのディビジョンシリーズ第3戦で10回に決勝本塁打を放つ。ヤンキースとのチャンピオンシップでは、0勝3敗と追い詰められた第4戦の12回に決勝本塁打を放つ。 第五戦では8回まで 2-4と敗勢濃厚な状況から逆転ののろしとなる本塁打を放ち、延長14回にサヨナラヒットを放つ。 ヤンキースを史上初の3連敗後の4連勝で破ったこのチャンピオンシップでオルティズはMVPに選出される。セントルイス・カーディナルスとのワールドシリーズ第一戦の第一打席でも3ラン本塁打を放ち、4連勝でレッドソックス86年ぶりのワールドシリーズ制覇に大きく貢献する。今季も連覇を目指し、常に安定した成績を残し、打点王を獲得、本塁打もリーグ2位と健闘したが、チームは敗れ、来期はチームメートのラミレスの移籍がほぼ確実となっており、オルティズに対するマークはさらに厳しくなりそうだ。




  1. 2005/10/30(日) 19:14:09|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ジョニー・デーモン

050611_bbl_mlb_damon_200.jpg

ジョニー・デーモン、長髪と髭(ひげ)がトレードマークの切り込み隊長。その風貌から“原始人”という愛称で人気を得ている。ヤンキースが紳士的であるのと対照的に、ジョニー・デーモンの野性味がレッドソックスらしさの象徴でもある。1992年にロイヤルズに入団。95年にメジャーデビューを果たし、レギュラーにも定着した。その後、3年間は成績が伸び悩んだものの、99年に打率307、36盗塁の記録で活躍した。翌2000年にはキャリア最高の打率327、46盗塁をマーク。初めてのタイトルとなる盗塁王に輝いた。01年にアスレチックスを経て、02年にレッドソックスへ入団した。04年、ア・リーグ優勝をかけて戦った宿敵ヤンキースとのプレーオフ最終戦に満塁本塁打を打つなど活躍し、レッドソックスを見事ワールドシリーズ優勝へと導いた。投手に多くの球数を投げさせ、選球眼のある辛抱強い打撃が特徴。この年は自己ベストの94打点を挙げ、勝負強さと長打力も見せた。また、チームメートのマニー・ラミレスやデービッド・オルティズらの主力打者が挙げた130打点を超える驚異的な記録も、リードオフマンとしてデーモンがしっかりと出塁していたからでもあった。05年4月、ブルージェイズ戦の守備で打球を追い、左中間フェンスに激突。利き腕の左ひじをぶつけ、6針縫う大ケガをした。しかし、翌日たった1試合休んだだけで、試合に復帰。そんなガッツ溢れる姿勢も、高く評価されている。デーモンは今オフFA申請を行った。デーモンをめぐってはライバル球団のニューヨーク・ヤンキースを始めとした数球団が獲得を狙っているが、本人はレッドソックスとの長期契約を念頭に置いているようだ。デーモンは今季、ア・リーグ4位の打率316、10本塁打、75打点、18盗塁の好成績をマーク。FAとなったものの「おれはボストンを愛している。できれば長くここにいたいと思う」と語ったように、これまでも繰り返しボストンへの残留希望を表明しており、レッドソックスもデーモン引き留めをオフの優先事項としている。



  1. 2005/10/30(日) 18:19:35|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

アンディ・ペティット

20051006-10561-03.jpg

アンディ・ペティット、まさに宣教師か日曜学校の先生になるため生まれてきたようなタイプの人間。自分のことよりも、いつも家族や友人のことを優先し、弱い立場に置かれた人間にやさしく、勝利投手になるとチームメートへの感謝の気持ちをまっ先に口にする。敬虔なクリスチャンでもある。高校のときは、大リーグのスカウトたちが見に来るという大事な試合で、「教会のイベントがあるから試合は休みます」と言い出し、関係者を仰天させた経歴の持ち主でもある。そんなもの静かでジェントルマンなペティットだが、伊良部のヤンキース入りが決まった時だけは我慢ができなかったようだ。当時、ペティットは既にヤンキースで通算39勝20敗を挙げていて、年俸は60万ドル(約7200万円)だった。それなのに、まだ1勝もしていない伊良部が自分の5倍の額を取ると知って憤慨したらしい。ペティットも生身の人間だったと言うことだろう。ペティットは、ルイジアナ州の生まれだが、テキサス州ヒューストンで育った。テキサスの英雄といえばノーラン・ライアンであり、ロジャー・クレメンスであり、豪速球ピッチャーが数多く生まれている。また、テキサス州は全米で一番大学野球が盛んな土地と言われ、ペティットは1990年にドラフト会議でヤンキースから22順目で指名されているのだが、いったんは大学進学を選んだ。が、翌年の5月に結局ヤンキースと入団契約を交わし、マイナーリーグに送りこまれた。ルーキーリーグから順調に3Aまで昇格し、95年4月29日に初のメジャー昇格を果たした。中継ぎで5試合に登板した後、5月半ばにマリアーノ・リベラと入れ代わりで3Aへ。しかし、すぐにまた声が掛かって、今度は先発でチャンスが与えられ、結局、その年は26試合に先発して12勝9敗、防御率4.17という好成績。ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票では3位だった。2年目は21勝を挙げ、ワールドシリーズ優勝にも貢献。第1戦では、ブレーブス打線に7失点という出来だったが、第5戦ではジョン・スモルツと球史に残る投手戦を展開し、救援を仰いで1対0で競り勝っている。また、サイヤング賞でも、パット・ヘンドゲンに継ぐ2位につけた。97年がまだすごくて、開幕から8連勝。さらに7月5日からは23イニングス連続無失点という記録を打ち立てた。ペティットにとって野球よりも何よりも大切なもの、それは家族だ。その一方で「チームメートたちも家族と同じ」と言い切る。98年はプレーオフの最中、父親のトム・ピティットが心臓病で倒れ、バイパスの手術を受けるアクシデントがあった。ワールドシリーズでは「DAD」と帽子に書き込み、厳しい表情で淡々と投げ続け、再びワールドシリーズ優勝に貢献した。ペティットは引退後、子供たちの学校で野球か、バスケットボールのコーチをやるのが夢だと言っている。ペティットなら、ヤンキースからアストロスへ移籍してしまったのも許してしまう。



  1. 2005/10/30(日) 17:51:35|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ロジャー・クレメンス

20051016-00000013-spnavi-spo-view-000.jpg

ロジャー・クレメンス、ヒューストン・アストロズの投手。150キロ以上の速球が武器で、「ロケット」の異名を持つ。引退後、野球殿堂入りはほぼ確実である。04年には、歴代最多(7度目)、最年長(42歳)、最多球団(4球団)でのサイ・ヤング賞受賞を達成した。05年は防御率1,87というずば抜けた成績を残した。大リーグ史上5本の指に入る超一流の投手といわれる。多くの野球評論家の間では、クレメンスが大リーグ史上最高の投手ではないかという議論が巻き起こっている。強いプロ意識と厳しい鍛錬に裏打ちされたパワーと技術は高い評価を得ている。多くの投手がクレメンスに憧れ、手本としている。しかし、短気と荒い気性でも知られ、ビーンボール(故意の死球・危険球)を投げることで有名である。2000年のワールドシリーズで、マイク・ピアザ(メッツ)の折れたバットを拾い、投げつけたシーンは大きな批判を浴びた。あの時の目つきは尋常なものではなかった。本人はバットをボールと間違えたと弁解している。以後ピアザとクレメンスは犬猿の仲として知られる。また、三振には特に強いこだわりがあり、4人の子供の名前の頭文字はいずれもスコアブックで三振を意味する「K」となっている。クレメンスの持ち球は、150キロ台の速球とよく落ちるスプリット。たまにカーブも投げる。速球は今現在でさえ球威十分。さすがといえるだろう。03年、通算300勝を達成したクレメンスは現役引退を表明する。ところがシーズンオフに「99%」と語っていた引退を撤回。故郷テキサスのヒューストン・アストロズと電撃契約を結ぶ。これは、地元の家族とそばにいるためと、同じくヤンキースから移動したアンディ・ペティットともう一度野球をやりたかったからと本人は言っている。04年は一度引退を表明した選手とは思えないすばらしい成績を残す。そしてオフ、クレメンスは再び「99,9%引退する」と宣言する。しかし、その後FAを宣言したり、年俸調停で球団側に2200万ドルを提示するなど現役続行への動きを見せ、05年1月22日に投手としては史上最高額となる1800万ドルの一年契約を結んだ。これは野手を含めても史上4位タイの高額契約だった。彼がたびたび引退を仄めかすのには理由がある。最愛の母・ベスさんが病気がちな上、かなりの高齢であるため、生きているうちに殿堂入りをする自分の姿を母に見せてあげたいと思っていたからであった(引退後5年を経過しなければ殿堂入りの資格が無い)。そのため、オフのたびに現役続行か引退かで心が揺れ動いていた。そして、05年9月14日午前4時30分ごろ、息子の殿堂入りを見届けることなく母・ベスさんはこの世を去った(享年75歳)。当日先発予定だったクレメンスは「前の晩に母に仕事に行きなさいと言われた」と、母の死を見届けた後、予定通りに先発登板。ワイルドカードを争うマーリンズを7回途中、1失点に抑え12勝目。通算340勝目を天国の母へ捧げた。

  1. 2005/10/30(日) 17:08:55|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1

ペドロ・マルティネス

050603_bbl_mlb_pedro_400.jpg

ペドロ・マルティネス、150キロを超える速球と、3種類のチェンジアップを自在に操る、現役最高との呼び声も高い右腕。これまでにサイ・ヤング賞を97年、99年、00年の3度受賞している。かつてドジャースのエースとして活躍したラモン・マルティネスを兄に持つペドロは、1988年ドジャースに入団し、92年9月24日にメジャーデビューを果たした。1988年ドジャースに入団し、92年9月24日にメジャーデビューを果たした。翌93年、メジャー初勝利を含む10勝5敗の好成績を残した。シーズン後にデリノ・デシールズとの交換でモントリオール・エキスポズに移籍。エクスポズでは4年連続で2ケタ勝利をマークするなど、先発ローテーションに定着。97年に17勝8敗、防御率1,90、305奪三振、13完投を記録し、初のサイ・ヤング賞を獲得。98年にカール・パバーノ、トニー・アーマスとの交換でボストン・レッドソックスに移籍、同球団と6年間7500万ドルという当時としては投手として史上最大の契約を結ぶ。移籍1年目は19勝7敗、2年目の99年には自己最多となる23勝、防御率2.07、313奪三振という素晴らしい成績を残し、ア・リーグのサイ・ヤング賞を受賞。2000年も、18勝6敗に加え、自己最高の防御率1.74を記録。2年連続3度目のサイ・ヤング賞に輝いた。先発投手がこれほどの防御率を記録するのは1968年以来である。01年は故障に泣いたが、02年は20勝4敗、03年は14勝4敗と、安定感ではリーグ屈指。04年、新加入のシリングとともに、エースとしてチームをけん引。レッドソックスを86年ぶりのワールドチャンピオンに導いた。シーズン終了後、フリーエージェントとなっていたが、ニューヨーク・メッツと総額4年5200万ドルで契約した。マルティネスの持ち球は常時150キロ代の速球と3種類のサークルチェンジ。時折カーブも投げる。奪三振数は毎年多く、250以上は記録する。投球テンポが速いのが特徴で、打者に考えるスキを与えない。100球以上投げるとバテ始めるので、降板する時は近い。マルティネスはこれまで、球場の内外で数々の波紋を巻き起こしている。 厳しい内角攻めのため与死球が多く、数々の遺恨・乱闘を生み出している。 ヤンキースとレッドソックスの間に続いていた「バンビーノの呪い」についても、「俺はあんなものを信じていない。 バンビーノとやらをたたき起こして俺のところに連れてこい。 言葉は悪いが、奴のケツに一発ぶち込んでやる」と言い放つ。 03年のアメリカンリーグ・チャンピオンシップ第三戦では、ヤンキースのベンチコーチであるドン・ジマーを地面に叩き落とし、波紋を呼んだ。04年のシーズン終盤にはヤンキース戦で打ち込まれたせいか、「ヤンキースをダディーと呼ぶ」などと白旗を上げるかのような発言をし、それをネタに野次を飛ばされたが、幸いにもチームはヤンキースを打ち破り、ワールドシリーズを制覇した。グラウンド内でも外でも話題の絶えない選手である。


  1. 2005/10/30(日) 16:33:18|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

松井 稼頭央

040519_bbl_mlb_kazuo.jpg

松井 稼頭央、メジャーリーグニューヨーク・メッツ所属の日本人メジャーリーガーで、ポジションは内野手である(主に遊撃手、2塁手)。俊足巧打のスイッチヒッター。大阪・PL学園高ではエースとして甲子園で活躍。1994年にドラフト3位で西武ライオンズに入団した。プロ入り後は俊足・強肩を生かして内野手に転向。2年目から1軍出場を果たすと、69試合で45安打、打率221ながら21盗塁を記録し、俊足ぶりを発揮する。翌96年は全試合に出場し、134安打で打率2割8分3厘、リーグ2位の50盗塁をマーク、ショートのポジションを不動のものとした。97年には62盗塁で盗塁王のタイトルを獲得。初のオールスター出場も果たし、1試合4盗塁の新記録を達成するなど、「快足・松井」の名を全国に知らしめた。98年は3年連続全試合出場に加え、2年連続リーグ2位となる179安打。43盗塁で2年連続のタイトルに輝き、パ・リーグMVPにも選出される。99年は、32盗塁で3年連続盗塁王。さらに178安打で最多安打のタイトルも獲得した。2002年、松井はプロ野球史上8人目、スイッチヒッターでは初となる「打率3割・30本塁打・30盗塁」を達成。年間長打の日本記録を52年ぶりに塗り替えるなど、輝かしい成績を収める。03年は、盗塁数こそ13個と伸び悩んだが、8年連続全試合出場、7年連続3割、2年連続30本塁打を記録。オフにFA宣言し、メッツへの入団を決めた。開幕前こそ練習中の怪我等で出遅れたが、04年4月6日(現地時間)の対アトランタ・ブレーブスの開幕戦で、前年度に21勝をあげたラス・オルティス投手から開幕戦・新人・初打席・初球ホームランの離れ業を達成。メッツのハウ監督をして「おとぎ話のようだ」と言わしめた。04年シーズン当初のポジションは遊撃手であったが、シーズン途中に二塁手にコンバートされた。トップレベルのサラリーで鳴り物入りで契約したが、メジャーのプレースタイルが合わなかったのか、あるいは天然芝への対応ができなかったのか、04年以降は打撃、守備ともに極めて低迷しており日本の活躍からは考えられないくらい大不振に陥っている。地元紙ニューヨークデイリーニュースでは「メッツの最優先課題はマツイを放出するべき」とほぼ毎日のように叩かれ、ホームスタジアムでは観客から盛大なブーイングを浴びている。守備が悪いと言われているが、日本では4度のゴールデングラブ賞に輝いている。松井稼が守備に就いているときは、「内野安打は不可能」とまで言われていた。彼は西武時代、それほどバッシングを受けたことがなかったが、メッツに移籍してからは、ホームスタジアムの観客から盛大なブーイングを浴びている。守備に対する不安から、打撃まで狂ってしまった。しかし、経験さえ積めばメジャーでも屈指の運動能力を持っているので、必ず活躍できるだろう。今オフにメッツが松井稼を放出したら、僕はメッツの試合を2度と見ることはないだろう。






  1. 2005/10/30(日) 16:12:07|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:0

ホルヘ・ポサダ

050604_bbl_mlb_posada_200.jpg

ホルヘ・ポサダ、強肩強打のキャッチャー。03年には、30本塁打を放つなど、長打力には定評があり、年間20~30本の本塁打を記録している。ヤンキースの正捕手でスイッチヒッター。プエルトリコ出身。90年、ドラフト24巡目でヤンキースに入団。ヤンキースでは数少ない生え抜きの選手である。マイナーリーグの1Aコロンバスでは2塁、3塁、外野とさまざまなポジションをこなし、最終的に当時はブレーブスにいた父親のアドバイスに従って、キャッチャーに専念する決意を固めた。器用なだけではなく、パワーも伴なっていたし、フットワークの良さもさることながら、肩がめっぽう強かったためだ。新人の頃から打撃には定評があり、勝負強かった。が、99年には17個のパスボールを記録してしまうなど、守備やインサイドワークには難点があった。それを持ち前のたゆまぬ努力で、じわじわと克服していったのである。パーソナル・トレーナーを雇い、オフシーズンもウェイトトレーニングは欠かさない。やさ男ふうの顔つきをしているが、意志は強い。闘志の固まりと言ってもいい。乱闘になると率先して大暴れする。メジャー昇格した当初はピッチャーがサインに首を振ると、それだけでカッカと怒りをあからさまにしていた。レギュラー捕手として定着したのは2000年のシーズンから。それまではジョー・ジラルディと並行して起用されていたのだが、彼がシカゴ・カブスに移籍してしまったためである。この頃からシアトル・マリナーズが力をつけ、ヤンキースとの対決がア・リーグを大いに盛り上げるようになったのだが、ポサダは守護神の佐々木から2本もホームランを打っている。この年から現在まで、ヤンキース不動の正捕手として、強気なリードでチームを引っ張っている。ヤンキースの正捕手は、来年もポサダのものだ!



  1. 2005/10/30(日) 15:25:45|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

アルフォンゾ・ソリアーノ

030402_bbl_soriano_s.jpg

アルフォンゾ・ソリアーノ、俊足に加え、長打力も併せ持つ好打者。現在、レンジャーズの二塁手。ソリアーノの野球選手としての経歴は日本の広島東洋カープから始まる。1994年に広島と契約するも、1軍ではわずか9試合の出場にとどまり、97年限りで退団。日本には3年の滞在で、1軍でのヒットはたったの2本だけ。代理人と球団とのパワーゲームに巻き込まれ、年俸調停委員会を経て、任意引退選手として日本球界から去っていった。 さっそくインディアンズが160万ドル(約1億9000万円)を提示したのに対し、ヤンキースは310万ドル(約3億6000万円)。迷わずヤンキースを選んだソリアーノは、マイナーリーグに送りこまれ、わずか5カ月でメジャーにスピード昇格を果たすと、送球難に苦しむチャック・ノブロックに代わって、レギュラーの座を手中にした。また、その年のプレーオフでは、ア・リーグ優勝決定戦でマリナーズの守護神、佐々木主浩投手からサヨナラ本塁打、ワールドシリーズ第5戦でも延長12回裏にサヨナラヒットを放つなど、勝負強さを発揮した。02年は、史上4人目の40本塁打40盗塁まであと一歩に迫る、打率3割、39本塁打、102打点、41盗塁と、大ブレーク。03年には、先頭打者ホームランの一シーズン記録となる13本塁打を記録し、打率290、38本塁打、91打点、35盗塁と、好成績を残した。04年にアレックス・ロドリゲスがヤンキースへ移籍した大型トレードにともないレンジャーズに移籍した。その年のオールスターゲームではファン投票トップで選出され、先発2塁手として出場した。初回にロジャー・クレメンスから3ランホームランを放ち、オールスターMVPに選ばれた。三振や拙守も多いが、それを補って余りある長打力が魅力である。





  1. 2005/10/30(日) 15:00:03|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

マイク・ムシーナ

050121_mlb_mussina.jpg

マイク・ムシーナ、ナックルボーラー。文字どおりナックルボールを投げるピッチャーをこう呼ぶ。ナックルの握りからカーブを投げる魔球「ナックルカーブ」を武器とする、メジャーを代表する右腕。ナックルカーブというのは、ナックルの握りからカーブを投げるもので、まさにカーブとナックルが混じった感じ。「ディクソンズ・ベースボール・ディクショナリー」の表現を借りれば、スロットマシーンにコインを入れたときのように捕手のミットに飛び込んでくる球、それがナックルカーブだ。これも諸説が飛び交っているが、ムーシナはオリオールズ時代に「自分が発明し、開発したもの」と自負している。ナックルボーラーには二通りあって、ハフのように投球の大部分がナックルになってしまうタイプ。それから、もう1つがマイク・ムシーナのように他の変化球とナックルを混ぜるタイプだ。 ムシーナと言えば、いつも腰を曲げて、ヨッコラショという感じでセットポジションに入る。150キロ台のストレートにスライダーやカーブや2シーム……そこへナックルボール、さらにナックルカーブも混ぜてくるのだから、まさに7色の変化球といっていい。ムシーナはフィラデルフィア州モントビル高校まではアメフトでも将来有望とされていて、名門ペンシルベニア州立大から誘われたこともある。1987年ドラフト11巡目でオリオールズが指名するも、これを拒否し、スタンフォード大学へ進学。頭も良くて、スタンフォード大学では3年半で経済学の学位を取得してしまった。 90年のドラフトで再びオリオールズから1位指名を受け、入団した。メジャーでのデビュー戦は、91年8月4日のホワイトソックス戦。7回2/3を投げ、新人離れした安定感を見せたが、フランク・トーマスにソロ本塁打を打たれて、0-1で敗れた。この年、打線に援護に恵まれない不運はあったが、2完投を含む12試合に先発し、4勝5敗、防御率2.87という成績をマーク。翌年、32試合に先発し、18勝5敗、防御率2.54という素晴らしい成績を残すと、翌年からはロジャー・クレメンスやペドロ・マルチネスと同格のピッチャーとして、毎年のようにサイ・ヤング賞候補にあげられるようになり、95年に19勝を挙げ、初の最多勝に輝くと、翌96年は2年連続の19勝に加え、初のゴールドグラブ賞も獲得した。2001年からヤンキースに移籍。この年の9月、フェンウェイパークでレッドソックスのデビッド・コーンと投げ合い、あと1ストライクで完全試合という球史に残る名勝負をみせた。ムシーナはこれ以外にも2度、大記録を目前にして夢敗れている。ここ最近は、年々数字が落ちているムシーナだが、ナックルという球は長く投げ込めば投げ込むだけ、変幻自在な威力を増すと言われている。今季も怪我により不本意なシーズンとなってしまったが、来年は復活を遂げると信じている。





  1. 2005/10/30(日) 14:28:15|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

マニー・ラミレス

manny2.jpg

マニー・ラミレス、卓越したバットコントロールで3冠王も狙えるスラッガー。現代メジャーリーグ屈指の好打者であり、スラッガーである。ドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴで生まれ育ったが、13歳の頃に家族とニューヨークへ移住。ジョージ・ワシントン高校を卒業し、1991年のドラフト1位(全体13位)でインディアンズに指名され、入団した。ルーキー・リーグと1Aクラスを経て、2年後には順調に2Aクラスのイースタン・リーグ、カントンに昇格した。さらにシーズン途中から3Aクラスのシャーロット・ナイツへ。ここで後にインディアンズの打撃コーチ、監督に就任するチャーリー・マニエル(元近鉄)と出会った。 もともと、マニーはたぐいまれなスイングの美しさと力強さが、スカウトたちの間で高く評価されていたが、変化球やチャンジアップへの対応や相手ピッチャーの癖を見抜くプロのテクニックは、まだ備わっていなかった。マニエルはテッド・ウィリアムズの打法など、参考になりそうなビデオは繰り返し見せて懇切、丁寧にレクチャーした。マニエルの指導のもと、マイナーで着実に成績を残したラミレスは93年、ついにメジャー昇格を果たす。95年、レギュラーに定着すると、打率3割8厘、31本塁打、107打点の成績を残し、脚光を浴び始める。99年には、165打点を記録し、打点王に輝いている。そして、2000年のオフにFA宣言すると、争奪戦の揚げ句、レッドソックスが最高年俸のアレックス・ロドリゲスに次ぐ、8年総額1億6000万ドル(約176億円)の契約で落札した。移籍1年目の01年は、打率3割1分1厘、41本塁打、125打点を好成績。02年は、自己最高となる打率3割4分9厘を記録し、首位打者を獲得する。03年のシーズン後にアレックス・ロドリゲス内野手との交換でテキサス・レンジャースに移籍の動きがあったが、このトレードは成立寸前に破談となる。このことからラミレスはレッドソックスに対して不信感を持つこととなる。この悔しさをバネに、04年には打率308、43本塁打、130打点を記録し、チーム86年ぶりの世界制覇に大きく貢献し、ワールドシリーズではMVPに選出される。自身も初の本塁打王に輝いた。王者として迎えた05年、安定した成績を残すもチームは連覇を逃し、ラミレスは球団への不満を爆発させトレードでの移籍を希望している。残留の可能性はほぼ0%であり、ヤンキースが獲得に乗り出すのではないかと言われている。来期は、ピンストライプのラミレスが見れるかもしれない。






  1. 2005/10/30(日) 14:07:34|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ランディ・ジョンソン

randy_200.jpg

ランディ・ジョンソン、「ビッグ・ユニット(大きな物体)」の異名を持つ。メジャーリーグでも類を見ない208cmの長身から、160km/h超のストレートとスライダーの2種類を投げ分ける。多くの打者が、メジャーリーグで最も対戦したくない投手の1人に挙げている。サイ・ヤング賞を5度獲得しており、7度受賞しているロジャー・クレメンスに次ぐ受賞数である。高校時代は最後の試合で完全試合を達成。高校卒業時にブレーブスからドラフト3位で指名されるが、名門南カリフォルニア大学への進学を選ぶ。そして1985年、ドラフト2位でエクスポズに入団した。1988年、9月15日のパイレーツ戦でメジャーデビューを果たし、初登板初勝利を挙げると、この年、3勝を記録。89年、新人王の候補にも挙げられていたが、開幕からまさかの4連敗を喫し、マリナーズへ移籍する。移籍後もコントロールに苦しみ、1990年から3年連続で100四死球以上を記録し続けたが、マリナーズはその球威と三振率に注目し、先発として使い続けた。防御率も常にリーグ平均以上を記録しており、四死球を大幅に減らせば勝ち星が増えることは明らかであった。転機は1992年、大投手ノーラン・ライアンと、当時テキサス・レンジャーズ投手コーチだったトム・ハウスとの出会いだった。メンタル面での重要性を教わるなどの指導を受け、翌1993年からジョンソンは化けることになる。その1993年、19勝8敗、防御率3,24、308個の奪三振を記録し、一躍メジャーリーグを代表する投手となった。1995年には18勝2敗、防御率2,48、294個の奪三振を記録し、初のサイ・ヤング賞を受賞し、1997年には20勝4敗、291個の奪三振、現在でも自己記録である防御率2,28を記録した。その後、1998年のシーズン中に交換トレードでヒューストン・アストロズに移籍し、チームのプレイオフ進出の原動力となった。その年の、オフシーズンに設立2年目のアリゾナ・ダイヤモンドバックスと4年間5300万ドルの契約を交わした。チームは寄せ集めであり、またすでに36歳のジョンソンとの契約を疑問視する声も多かったが、1999年のシーズンを17勝9敗、防御率2,48で終え、チームをプレイオフに導き、2度目のサイ・ヤング賞を受賞し、オーナーだけでなくファンも満足させる結果となった。2000年にダイヤモンドバックスはフィラデルフィア・フィリーズから、右腕のカート・シリングを獲得し、2人はリーグで最も恐れられる先発コンビとなった。2001年シーズン、2人の投手はチームをワールドシリーズに導き、ニューヨーク・ヤンキースを4勝3敗で下し、設立5年目のチームに優勝をもたらした。ワールドシリーズMVPを共同で獲得した。2004年には、3つの記録を作ることとなる。1つ目は、5月18日に対アトランタ・ブレーブス戦で13個の三振を奪い、2対0でメジャーリーグで17人目となる完全試合を達成。2つ目は、6月29日の対サンディエゴ・パドレス戦でジェフ・シリーロから三振を奪い、史上4人目となる通算4000奪三振を記録。最後は、9月15日に通算4137奪三振を記録し、メジャーリーグ史上通算奪三振数3位となり、左投げとしては通算奪三振数1位となった。そして2005年1月、ニューヨーク・ヤンキースはジョンソンと2年契約を結んだ。今年は悔しいシーズンとなってしまったが、来年こそはワールドシリーズで、グラブを高く掲げて喜んでいるジョンソンを見ることができるだろう。

  1. 2005/10/30(日) 03:03:31|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ゲイリー・シェフィールド

050121_mlb_shefi.jpg

ゲイリー・シェフィールド、バットを前後左右に振りながらタイミングを計り、フルスイングする独特の打法で知られる強打者。そのバッティングの成績もさることながら歯に衣着せぬ口の悪さも有名で、ことあるごとにマスコミを賑わせている。最近の代表例では2004年末にイチローの最多安打記録に対して言った「ヒットを打つだけに徹すれば、俺にだってできる」を始め、2005年夏には、直接名指しはしなかったが「チームで一番活躍しているのは(キャプテンのデレク・ジーターではなく)誰なのか俺は分かっている」、「マスコミは2人の選手(アレックス・ロドリゲスとジーター)以外はゴミだ、と世間に広めたがっている」、「ヤンキースは一流のチームだが、選手間の信頼関係はない」とニューヨークの地元紙記者に発言したらしい。 実はシェフィールドが新加入したことで、「チームのムードを悪くしているのでは?」という声が、記者席ではちらほら聞かれた。というのも、過去に在籍したチームで、彼の評判は決して芳しいものではなく、2002年に石井一久がドジャース入りしたときも、「僕は昨年を知りませんけど、チームのみんながシェフィールドがいなくなったから、今年はムードがいいって話してるんですよ」と邪気なく語っていた。ドジャースばかりではなく、過去に在籍したどのチームでも、もめ事が絶えなかった。外から見ていると、特にシェフィールドが異彩を放っているわけではなく、個性の強い面々はほかにいくらでもいるような気がするのだが、ともかく、「チームワークを乱す」というのがもっぱらの評判だった。しかし、「自分勝手」というレッテルをはられていたシェフィールドだが、ヤンキースへの移籍に当たって、「三塁を守ってもいい」と名乗り出るなど、これまでにない「心配り」を見せるようになった。ヤンキースのらつ腕GMは、その辺も調査済みで、往年の豪腕投手、ドワイド・グッデンいわく、「結婚してから別人のように変わった。すごく大人になったから、問題は起こさないと思う」と語ったと言う。若いころはトラブルメーカーとして、グラウンド内外でその名をはせていたが、現在では頼れるベテランとして、チームメートからの信頼も厚い。ヤンキースをワールドシリーズ制覇に導くのは、シェフィールドのバットかもしれない。




  1. 2005/10/30(日) 02:28:34|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:0

アレックス・ロドリゲス

05042801arodKYD00344G050427T.jpg

アレックス・ロドリゲス、打撃、走塁、守備すべてにおいてトップクラスの成績を収めており、大リーグ史上屈指のオールラウンドプレーヤーといわれる。高校時代はバスケット・ボールではレギュラー、アメリカン・フットボールではクォーターバックとして多くの大学からスカウトの目に留まり、本業の野球では打率.422、6本塁打、52得点、42盗塁で全米選抜チームに選ばれるなど、卓越した運動神経を見せる。1993年マイアミ大学への入学書へサインをしていたが6月3日に全米1巡目の1位でシアトル・マリナーズと契約。翌年の1994年に18歳でメジャーリーグデビューを飾る。1996年には、打率.358、36本塁打、123打点という好成績で、21歳の若さで首位打者を獲得。97年6月5日にはサイクルヒット、98年には、42本塁打、46盗塁で史上3人目の「40-40」を達成。シアトル・マリナーズ在籍時には、大リーグでトップクラスのスラッガーでありながらショートを守るという新しいスタイルを確立した。しかし、2001年。10年間で総額2億5200万ドルという破格の契約でレンジャーズに移籍する。この年から3年連続で本塁打王を獲得。2003年には、1926~32年のベーブ・ルース以来となる“6年連続40本塁打以上”という偉業も達成し、初のMVPにも輝いた。そして2004年に、アルフォンソ・ソリアーノらとの交換トレードで、ヤンキースに入団した。2005年には、左翼が広いヤンキースタジアムを本拠地とするヤンキースは、右打者に不利と言われ、ジョー・ディマジオ以来、40本塁打を記録した選手はいなかったが、そのディマジオが1937年に打った46本を上回る47号を放ち、ディマジオを超え、ヤンキース歴代1位となった。彼は、3割、50本塁打打てるパワーヒッターであり、「40-40」を達成できるほどの足の速さを持ち、守備は華麗で、2002年にはゴールドグラブ賞も獲得。非のうちどころがない選手というのは、まさに彼のことを言うのだろう。2005年6月には、大リーグ史上初めて20代で通算400号を達成。ハンク・アーロンのもつ大リーグ通算本塁打記録(755本)のホームラン記録を塗り替えるのは、ロドリゲスであろうと言われている。




  1. 2005/10/30(日) 02:11:20|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

デレク・ジーター

jeter4.jpg

デレク・ジーター、走好守3拍子そろったメジャーを代表する遊撃手で、その甘いマスクから「ニューヨークの貴公子」と呼ばれる。高校時代に5割を超える打率を残したジーターは1992年、ドラフト1位(全体6位)でヤンキースから指名を受けて入団。95年にメジャー昇格を果たすと、96年にはメジャーに定着。打率314、10本塁打、78打点の成績で、ルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)を獲得し、ヤンキースの18年ぶりのワールドシリーズ優勝にも貢献した。同年のポストシーズンも活躍し、ヤンキースにとって18年ぶりのワールドチャンピオン奪取に大きく貢献する。ヤンキースは1998年から2000年にかけてワールドシリーズ三連覇を達成し、ジーターもその中で大きな役割を果たす。99年は、219安打、打率349、24本塁打、102打点と、いずれも自己最高の成績。2000年には、オールスターとワールドシリーズの両方でMVPに輝くなど、大舞台では抜群の勝負強さを発揮する。プレーオフやワールド・シリーズなど大舞台での活躍が多く、「ミスター・ノーベンバー」の異名を持つ。本来ワールドシリーズは毎年10月に行われるものであるが、2001年に限っては9・11テロの影響から史上初の11月開催となり、そこでの活躍からこの異名がつけられた。ヤンキースでは永久欠番となる条件に個人成績や人気の他に複数回に及ぶワールドチャンピオンのタイトル獲得が求められているが、ジーターはそれに見合う実績に加えてその絢爛な私生活による人気もあり、背番号「2」は引退後永久欠番となることが確実視されている。


  1. 2005/10/30(日) 01:26:06|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

高橋 由伸

img2380.jpg

高橋 由伸、誰もが「天才」と評する打撃力、卓越したバットコントロール、無駄のない美しいバッティングフォーム、プロ入り以来6年連続でゴールデングラブ賞を受賞した強肩を生かした守備など走攻守3拍子揃ったオールラウンダーである。打率3割を6度、30本塁打を2度記録しているが、タイトルには未だに縁がない。最近では、1年間怪我なくプレーできた年がなく、毎年怪我による離脱を経験している。しかし、1年間怪我なくプレーできれば間違いなくタイトルを取るだろうと言われている。左打ちである彼の左方向へのバッティングは、とても飛距離が出ることで有名で、その飛距離は、松井 秀喜と比べても大差ない。美しいスイングから放たれた打球は、どの方向にも打ち分けることができる。
  1. 2005/10/30(日) 01:07:10|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

マリアーノ・リベラ

050121_mlb_rivera.jpg

マリアーノ・リベラ、160キロ近い速球と、カットファーストボールを得意とするヤンキース不動の守護神。リベラの投げるボールはほとんどがカットボール。そのカットボールは、95~96マイル出ると言われている。あのイチローでさえ、出てきたらイヤだと思うピッチャーにリベラの名前を挙げている。チームメートにもトーレ監督にも絶対の信頼を寄せている。ヤンキース帝国の誇る難攻不落のクローザーとして、他のチームは、リベラの名前を聞いただけで震え上がり、敵チームのファンはリベラが出てくると帰ってしまうほどである。その恐ろしいほどの球威は、PSに入るとさらに増すと言われている。松井 秀喜がヤンキースに入団した年、フリー打撃でリベラと対決したその初球、リベラのウィニングショットのカットボールに空振りし、チームメートに「あんな凄いボールを投げるのは彼だけだから安心しろ!」と言われたという。毎年、40~50セーブを記録し、シーズン防御率が1点台で終わることも珍しくない。毎年ストーブリーグで世間を騒がせているヤンキースも、守護神は補強する必要がないと言われている。まだまだリベラは常勝軍団ヤンキースの誇る最大の武器として頂点に君臨し続けるだろう。
  1. 2005/10/30(日) 00:33:33|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

福浦 和也

20051026-00000001-maip-spo-view-000.jpg

福浦 和也、今季ロッテの31年振りの日本一に貢献したレギュラーの1塁手である。打順は、主に3番。1993年、ドラフト7位でロッテに入団。最初は、投手として入団したが、後に打者に転向。左投げなのでファーストか、外野を守った。1997年に、1軍デビュー。オリックス時代のイチローそっくりの振り子打法で、安打を量産し、ファーストのレギュラーに定着する。レギュラー定着後も着実に実力をつけ、ついに2001年、一気に才能が開花する。この年、イチローがメジャーリーグに挑戦したため、それまでイチローの独壇場だった首位打者の座を、日本ハムの小笠原 道大との激しい争奪戦を制し、打率346で初の首位打者に輝く。また、本塁打も18本も打っており、長打力も見せ付けた。翌年、福浦は振り子打法を捨て、あまり足を高く上げないオーソドックスな打撃フォームに改造した。前年より、数字は下がったものの、2年連続で3割をマークし、2003年には、3年連続の3割、本塁打21本、そしてゴールデングラブ賞獲得と、球界トップレベルのクラッチヒッターとしてロッテの顔となった。しかし、2004年。韓国で56本塁打を記録した李承樺が入団し、同じポジションである福浦のレギュラーは白紙となった。しかし、福浦はまたも実力でレギュラーを掴み取った。2004年シーズンの福浦は、オリックスの谷 佳知以来、史上2人目となるシーズン50二塁打を記録。李承樺を外野へ追いやるほどの活躍を見せた。今シーズンは、腰の故障などに悩まされ、前半戦は満足のいく活躍ができなかったが、後半戦から打ち始め、プレーオフや、日本シリーズでの活躍は、さすが福浦!と思わせる働きだった。打率も2001年から5年連続の3割を記録し、チームも日本一になり、福浦にもチームにも最高の一年になっただろう。来年は、シーズン1位でプレーオフを制し、V2を達成できることをねがっている。
  1. 2005/10/29(土) 23:16:56|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ジェイソン・ジアンビー

050121_mlb_giambi.jpg

ジェイソン・ジアンビー、強打者揃いのヤンキースのなかでも、トップレベルの長打力を誇るパワーヒッター。そのバッティングは、極端に引っ張るスタイルで、外角低目に見事にコントロールされたボールも強引にライトスタンドへ叩き込むほどのパワーを持っている。そのため、他のチームは、ジアンビーが打席に立つと、「ジアンビー・シフト」と呼ばれる極端なシフトを取る。三塁線をがら空きにして、右方向を固めるシフトである。去年までのジアンビーは、この「ジアンビー・シフト」に果敢に挑み、ヒット性の当たりを取られても、自分のバッティングを崩そうとしなかった。しかし、今年のジアンビーは三塁線へのセーフティバントを試みたり、慣れない流し打ちや、自分で決めたい気持ちを抑え四球を選ぶなどでとにかく出塁にこだわった。その結果、四球はリーグトップの108四球、出塁率もリーグトップの4割4分(両リーグ2位)だった。主要三部門でも、打率271、32本塁打、87打点で、特に7月には、月間14本塁打をマークし、1961年にミッキー・マントルが記録した7月の月間チーム最多本塁打記録に並び、月間最優秀選手に選ばれている。そして、今季のカムバック賞にケン・グリフィーJrと共に選ばれた。しかし、今シーズンのジアンビーのスタートは最悪だった。2004年にステロイド問題の中心人物になり、腫瘍を始め、多くの奇病を発症し、試合数80、打率208、12本塁打、40打点と自身最悪のシーズンとなった。2005年は、オフにトレード要員に名前が挙げられ、ステロイド問題がまたジアンビーを苦しめた。その影響もあり、シーズン前半は、打率1割台、本塁打1桁台と低迷し、2000年から2004年まで5年連続で出場していたオールスターゲームに選ばれなかった。しかし、後半は人が変わったように打ちまくり、プレーオフでも活躍した。来年のジアンビーは、シーズン開始から打ちまくるだろう。真の復活は来年なのかもしれない。真のジアンビーは、本塁打や、打点だけでなく、イチローと首位打者を争うくらい打率も残すのだから。
  1. 2005/10/29(土) 18:58:48|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:0

バーニー・ウィリアムス

050121_mlb_barnny.jpg

バーニー・ウィリアムス、ヤンキースの誇りを体現する数少ない人格者である。イチローも憧れる走攻守3拍子揃ったスイッチヒッター。彼の場合、野球だけでなく、ギターや、陸上などの道を選んでいても超一流になっていたと言われている。特技のギターでは、アルバムも発売している。陸上でも、選抜チームに選ばれ、鉄棒や、平行棒なども楽々こなしたと言われている。ヤンキース一筋15年間、90年代後半は不動の4番バッターとしてヤンキースの黄金時代を築いた。1985年にヤンキースと契約。メジャーデビューは91年で、打撃が開花したのは95年。初の3割を記録すると、この年から2002年まで8年連続3割をキープ。本塁打も、毎年20本から30本放ち、打点も100打点前後を記録した。98年には、打率339で首位打者、97年から00年には4年連続ゴールドグラブ賞に輝いている。走塁面も元陸上選手なのでとても早い。4番バッターじゃなかったら盗塁王も狙えた。長打の打てるスイッチヒッターとして、パワー・スイッチヒッターと言われている。しかし、長い間ヤンキースを支えてきたバーニーも今オフ、ヤンキースとの契約が切れる。ヤンキースが再契約する可能性は低い。FAでの今後の動向に注目が集まる。近年は衰えが目立ったバーニー、年齢からくる衰えだと言われているが、様々な箇所に故障を抱えながらプレーしていたのも確かだ。故障が治ればまだまだ第一線で活躍する実力はある。僕は他球団でもバーニーの活躍を見たいと思っているので、新天地での活躍に期待する。
  1. 2005/10/29(土) 16:43:32|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ケン・グリフィーJr

052.jpg

ケン・グリフィーJr、僕がリスペクトする選手の一人だ。近年、怪我により思ったような成績が残せていなかったが、今年のグリフィーは違った。打率301(ナ・リーグ12位)、本塁打35本(同7位)、打点92(同17位)で三部門でトップ20に入り、ジェイソン・ジアンビーと共にカムバック賞に輝いた。しかし、僕の中でのグリフィーはまだ復活していない!この成績ではまだ寂しいのである!本物のグリフィーは走攻守すべてにおいて全メジャーリーガーのトップに君臨し、三冠王に一番近い男といわれていた。打撃では、97,98年に56本のホームランを放ち、ホームラン王に輝いている。守備では、90年から10年連続ゴールドグラブ賞を獲得、そして足も速く、99年には24盗塁もしている。まさに三拍子揃ったスーパースターだった。しかし、99年オフにレッズ移籍してから歯車が狂い始めた。1年目にゴールドグラブ賞を逃し、翌年からは怪我が絶えなくなり、タイトルからはどんどん遠ざかった。しかし、今シーズンの活躍により、ヤンキースの来期センター候補の一人に挙げられている。僕は、グリフィーの実力が衰えたのではなく、環境が合わなかったんだと思っている。グリフィーはバリー・ボンズや、マニー・ラミレスのようなパワーで打つタイプではなく、身体のバランスとタイミングで打つタイプなのでまだまだ活躍できるはずだ。ここはもう一度慣れ親しんだア・リーグに戻り、1からやり直してもらいたいと願う。
  1. 2005/10/29(土) 02:11:46|
  2. 2005年 10月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ

プロフィール

ジュニア

Author:ジュニア
背番号25へようこそ!!

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。