背番号 25

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今江 敏晃

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今江 敏晃、ニックネームは「ゴリ」。中3春に全国優勝。ボーイズリーグの世界選抜で世界大会で優勝した。高校時代は強豪PL学園で1年生から4番に座る。2年夏に4番遊撃手で甲子園に出場、3回戦敗退。当時の同級生に現阪神の桜井広大、東北楽天の朝井秀樹。04年は後半戦一軍に上がるも故障もあり41試合の出場にとどまった。05年度は背番号が25から8に変更。背番号8とはかつて同じサードを守り「ミスターロッテ」と呼ばれた有藤通世の現役時代の背番号で、キャンプでは有藤本人から叱咤激励の言葉を受けた。将来クリーンアップを担う選手として首脳陣の期待も大きい。05年、打順は上下するもサードのレギュラーに定着。球団史上歴代5位となる22試合連続安打を記録し、一時は打率ランキングトップとなるなど活躍。そして日本シリーズでは第1戦・第2戦で8打席連続安打の新記録を達成するなどチームの日本一に貢献、MVPを獲得した。日本シリーズの第1戦でホームランを打った際、そのボールはレフトの阪神サイドへ。その試合後、そのホームランボールを取ったというファンから今江にそのホームランボールを返還してくれた。この行為に本人は人目をはばからず号泣。「明日以降も頑張ります!」と宣言し、その後もシリーズ男として八面六臂の大活躍を見せた。04年、10歳年上の夫人と結婚し、翌年10月のプレーオフ開催中に第1子が誕生した。






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  1. 2005/10/31(月) 23:18:25|
  2. 2005年 10月
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石井 一久

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石井 一久、ニューヨーク・メッツの投手。コントロールは粗いが、非常に切れのいい速球と左打者の後ろから入ってくるような大きく割れるカーブを投げることで知られる。東京学館浦安高時代は、甲子園出場こそなかったものの、3年夏の県大会4試合で合計52奪三振を記録した。92年、ドラフト1位でヤクルトに入団。ルーキー年に1軍帯同しており、日本シリーズ第2戦に先発している。入団時から背番号は16で、球団の大きな期待がわかる。初勝利は93年の阪神戦。雨天コールドで拾った勝利だった。この年、3勝をマークすると、94年には7勝と、着実に勝ち星を増やす。95年、13勝4敗で最高勝率を記録し、リーグ制覇と日本一に貢献。97年も9月2日にノーヒットノーランを達成するなどの活躍を見せ、チームを日本一へと導いた。98年に241奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得すると、2000年は最多奪三振と最優秀防御率の2冠を達成。01年には12勝を挙げ、4年ぶりとなる日本一の原動力となった。リーグ優勝の時には真っ先にベンチを飛び出し、胴上げ投手である高津臣吾に捕手の古田敦也よりも早く抱きつく(普通、優勝の瞬間は投手と捕手が抱き合う)。さらに、同年の日本シリーズでは最後の打球がファールグラウンドに上がったキャッチャーフライであったのをいいことに、ベンチからカニ歩きで出てきて、捕球の瞬間にダッシュ。やはり高津と抱き合った。同じく01年のリーグ優勝時の若松勉監督の胴上げで、同僚の石井弘寿と協力し、小柄である若松監督の足を高々と上に突き上げ、回転させるという危ないいたずらをした。02年、ポスティング(入札)制度を使ってドジャースに入団。入団会見では「僕の妻はカリフォルニア人」と話し、会場の爆笑を誘う。4月6日のロッキーズ戦で初勝利を挙げると、その後開幕6連勝をマーク。4月のナ・リーグ月間最優秀新人賞に輝く。1年目から先発の柱として14勝を記録するが、9月8日のアストロズ戦で打球を左前頭部に受け途中退場。頭蓋骨(ずがいこつ)の亀裂骨折でシーズン中の復帰は果たせず、惜しくも新人賞を逃した。03年はシーズン中盤まで安定した成績を残すも、8月に左ひざ痛のため約1カ月の故障者リスト(DL)入り。 9勝7敗の成績で、新人からの2年連続2ケタ勝利は逃した。04年、シーズン初登板で1勝目を挙げると、開幕から最多勝争いを繰り広げる。7月には早くも2ケタ勝利をクリアするものの、防御率の悪さからか、首脳陣の信頼を得られず、中継ぎにも回った。結局、チーム最多の13勝をマークしたが、プレーオフでの登板はなし。05年、ジェイソン・フィリップスとのトレードでニューヨーク・メッツに移籍。 しかし、移籍1年目は思うような成績を残せなかった。日本球界復帰の噂もあるが、来期にかける思いは強い。






  1. 2005/10/31(月) 23:06:04|
  2. 2005年 10月
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小林 雅英

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小林 雅英、人呼んで「幕張の防波堤」。薮田安彦、藤田宗一から小林に繋ぐリレーはロッテの“勝利の方程式”である。その高い安定感を誇るリレーを阪神の「JFK」とかけて「YFK」と呼ぶ。入団した99年シーズンは専ら先発として起用され、5勝5敗の成績を残したが、翌00年、当時の山本功児監督によってリリーフに配置転換されると、150㎞超の速球と高速シュートを武器に11勝6敗14セーブの好記録を挙げる。 以後03年まで3年連続の30セーブを達成している。04年、アテネオリンピック野球日本代表に選出。リリーフ投手として素晴らしい成績を出してはいるが、毎回のようにヒットなどでランナーを出す。そしてピンチになるも最後は抑えるという所謂「劇場」をやってしまうことが多い。そのためついたあだ名は「劇場王」。05年にようやく初のタイトルである最優秀救援投手賞を獲得したが、投球回数を上回る被安打数(45回1/3イニングに対して被安打49、与四死球10)を記録した。それでも防御率は2,58で要所は締めていた。05年5月18日の対広島東洋カープ戦において、プロ野球史上4人目となる通算150セーブを達成。登板数312試合目での150セーブ達成は史上最速。 05年10月15日、福岡ドームで行われたプレーオフの対ソフトバンク第3戦にて31年ぶりのリーグ優勝を目の前にして4-0から同点にされる大失態を演じた。第5戦でも一打同点、プレーオフ敗退の場面を「演出」するも、後続を抑えて胴上げ投手となり、劇場王の面目を保った。日本シリーズでは、阪神タイガース相手に第4戦のみに登板、四球でランナーを出したものの、見事に胴上げ投手となった。






  1. 2005/10/31(月) 22:42:52|
  2. 2005年 10月
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サミー・ソーサ

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サミー・ソーサ、メジャーで唯一、シーズン60本塁打以上を3度も記録している強打者。ドミニカ共和国に生まれたソーサは、16歳でレンジャーズと契約。89年にメジャーデビューを果たすも、シーズン途中でホワイトソックスへトレードされる。92年、同じシカゴを本拠地とするカブスへ移籍。この年はケガに悩まされるも、93年にブレーク。33本塁打に加え、36盗塁を記録した。 96年に自己最多の40本塁打をマークしたソーサは98年、マーク・マグワイアと史上まれに見る本塁打王争いを繰り広げる。結局、2人もロジャー・マリスが打ち立てたシーズン61本塁打の最多記録を上回り、マグワイアが70本塁打、ソーサが66本塁打で終了。ソーサは本塁打王のタイトルこそ獲得できなかったが、158打点で打点王に輝いた。02年に49本塁打で2度目の本塁打王となったソーサだが、翌03年は思わぬ事件に巻き込まれる。試合中に折れたバットからコルクが発見され、退場処分を宣告され、後に7試合の出場停止処分が下されてしまったのだ。この事件の影響もあってか、この年は40本塁打に終わったが、チームはプレーオフに進出。しかし、リーグ優勝決定戦でマーリンズに惜しくも敗れた。04年は、打率が2割5分3厘と98年以降では最低。本塁打も35本で、40本塁打以上は6年連続で途切れた。05年、オリオールズに移籍し、念願のワールドシリーズ進出を目指したが、ヤンキース、レッドソックスの2強を崩すことはできなかった。




  1. 2005/10/31(月) 22:29:07|
  2. 2005年 10月
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佐々木 主浩

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佐々木 主浩、ニックネームは大魔神。背番号は日米球界を通じて22番。背番号22番は、横浜ベイスターズの永久欠番となる事が噂されている。89年、ドラフト1位(野茂英雄の外れ1位)で横浜大洋ホエールズ(現:横浜ベイスターズ)に入団。 入団2年目より救援に専念すると、重い直球と落差のあるフォークボールで高い奪三振率を記録し、圧倒的な存在感を持つ抑え投手となった。 特に中継ぎの盛田幸妃投手とのコンビは鉄壁を誇り、「横浜相手で6回までにリードしていない限り、逆転は不可能」とまで言われるほどであった。 98年には島田直也、横山道哉など、好調な中継ぎ陣とともに横浜の優勝に貢献、MVPに選出された。99年オフにFA宣言し、メジャーリーグのシアトル・マリナーズに移籍。ここでも抑え投手として活躍した。04年横浜ベイスターズに復帰。多少威力は衰えたとはいえ、数種類に変化するフォークボールは他球団の脅威となっていた。 しかし、8月4日の中日戦、8月7日のヤクルト戦で連続して救援に失敗すると、8月8日のヤクルト戦でも土橋勝征、岩村明憲、古田敦也に3連続本塁打を浴びて救援に失敗。3試合連続の救援失敗となった後、二軍落ちし、そのままシーズンを終えた。05年のシーズン開始当初は抑え役を務めていたが、年齢と度重なる怪我から来る球威の衰えは隠せず、登板3試合連続サヨナラ負けを喫するなど打ち込まれ、8試合0勝3敗4セーブ防御率9,53の成績で二軍落ち。その後復帰を目指して調整を続けていたが、調子は上がらず、またその間にクルーンが抑え役に台頭したこともあり、チームの戦力構想外となる。8月7日、現役引退を表明。8月9日の巨人戦では、序盤に清原和博に対するワンポイントリリーフという強引な形で宮城での引退登板を行った。本拠地での引退試合は、10月8日(対ヤクルト戦)に行われたが、当初予定されていた登板は「チームがAクラスを争っている時に登板して迷惑をかけるのは良くない」という理由で行わず、セレモニーでの挨拶のみが行われた。「大魔神」と呼ばれるごついイメージとは裏腹に、温厚かつ人当たりの良い性格で、チームメートや後輩からも慕われており、交友関係は野球界のみならず芸能関係にも幅広い。








  1. 2005/10/31(月) 22:16:22|
  2. 2005年 10月
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